卵と壁 Always on the side of the egg


haruki murakami

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があるとしたら、私は常に卵の側に立ちます

(*長文です)
ほんの10年前  – 2009年のことですが – 、 村上春樹さんは、エルサレム賞を受賞しました(エルサレムの文学賞)。

その受賞は日本では、とても激しい批判とバッシングを受けることになります。
パレスチナを糾弾するイスラエルの賞など どうして受けるのか? 辞退するべきだ ! というような。

ムラカミさんはそのころ、地下鉄サリン事件の被害者そして実行犯たちをも、双方をインタビューし、分けて書籍出版しています。
『アンダーグラウンド 』 『約束された場所で (アンダーグラウンド2)』

ムラカミさんは、こう言います。

実行犯が行ったことはまぎれもない悪で 許されないことだが

社会のシステムが生みだしたものとして、それでもなお実行犯の側に立って ものをしっかり観なくてはいけない。

たとえそのことで、自分が被害者や社会に糾弾されることになっても僕はかまわない。

(*ベストセラーになった、IQ84 には、このような矛盾した気持ちを入れ込んだとも、どこかで書いていました)

西川ロミ リコネクション


特に日本のメディアというのは特殊で、情報が一気に、
”正しい・間違っている、黒なのか・白なのか
、という2元的な方向に流れます”。

そしてその情報を与えられた多くの普通の人は、それを字面のまま、何も考えようとしないで受け入れ、今度はそれを よそに発信する。

声が大き人が勝つというシステムは、SNSの今の時代はもっと顕著です。
言うだけいって、あとは責任を取らない、というような・・・。

  自分の目で実際に見ること、調べること

  自分なりの意見を自分なりの言葉でちゃんと言えること

  孤独でも、自分にとっての真実をちゃんと生きること (そこには、人間らしいユーモアがあるともっといい)

ムラカミさんは孤独の中で、
エルサレム賞の受賞は、自分がやるべきだ、しっかりと賞を引き受け、現地に行って自分の言うべきことを言わなくてはいけない、
と、そんな思いで、スピーチの原稿を一行一行心を込めて書いたそうです。

文中には、《壁と卵》 という比喩がでてきます。

私たち一人一人は、かけがえのない魂で、それは壊れやすい殻でくるまれ宿されている。 わたしたちは卵である。

◼︎◼︎

それから10年、ムラカミさんの原稿をまた読み返しながら、ただ壁にぶつかって壊れてしまうだけだった卵は、今は魂が自ら目覚めようとして、内から殻をコツコツとつつき、出てこようとしている。

自分にとっての真実を ちゃんと生きようとしている魂が 、地球上には たくさん 生まれはじめているような、そんな気がするのです。

リコネクション 西川ロミ

 

(* 村上春樹・2009年エルサレム賞受賞スピーチ/ 日本語訳・オリジナルは英語です )

私は一人の小説家として、ここエルサレム市にやって参りました。

言い換えるなら、上手な嘘をつくことを職業とするものとして、ということであります。
もちろん、作家以外にも嘘をつく人種はいます。

ご存知のように政治家もしばしば嘘をつきます。
外交官や軍人も、嘘をつきますす。中古車のセールスマンや肉屋や建築業者だって同じです。

しかし、小説家の嘘には他の人々の嘘とは違う点があります。
小説家は嘘をついたからといって不謹慎であると非難されることはありません。
むしろ、巧妙な大きな嘘をつけばつくほど、、そしてそれが独創的であるほど、人々や批評家から賞賛されるのです。

なぜか?

私の答えはこのようなものです。
すなわち、巧みな嘘をつくこと、言い換えれば真実味のあるフィクションを構築することによって、
作家は真実を別の場所に引っ張り出し、その姿に別の新しい光を当てることができるのです。

ほとんどの場合、真実をそのままの形で捉え、正確に描写することは不可能です。
だから、真実が潜んでいるところからおびき出して、フィクションの次元に移し、フィクションの形を与えることで、真実の尻尾を掴もうとするわけです。

しかし、これを成し遂げるためには、まず、真実のありかを、自らの中にはっきりさせておかなければなりません。
これはうまい嘘をつくための、重要な条件です。

しかし、本日、私は嘘を言うつもりはありません。
できるだけ正直になろうと思います。
私が嘘を紡がない日は年に数日しかないのですが、今日はたまたまその一日にあたります。

正直に申し上げましょう。
わたしはイスラエルに来て、このエルサレム賞を受けることについて、
『受賞を断った方が良い』という忠告を少なからざる人々から受け取りました。
もし行くなら、私の本の不買運動を展開するとまで警告した人々もいました。

理由はもちろん、ガザで起こっている激しい戦闘です。
国連のレポートのよれば、1000人以上の人が封鎖されたガザ市で命を落としています。
その多くは非武装の、子供や老人といった市民です。

賞についての知らせを受けて以来、私は何度も自らに問いかけました。
このような時期にイスラエルを訪れ、文学賞を受賞することは適切なのだろうか?
これが、紛争の一方の側に味方する印象を造らないだろうか?
圧倒的な武力を解き放つ選択をするという政策を支持することにならないだろうか?

もちろん、これはわたしの好むところではありません。
私はいかなる戦争も反対ですし、いかなる国も支持しません。
またもちろん、わたしの本が書店でがボイコットされるのも、あえて求めるところではありません。

しかし、じっくり考えた末に、結局は来ることを決意したのです。
この理由の一つは、あまりにも多くの人に『行くのはよした方がいい』といわれたことでした。

小説家の多くがそうであるように、私は他人に言われたことと反対のことをする傾向があるのです。
もし人々に「行くな」とか「するな」と言われたら、…特に警告されると、行ってみたり、やってみたくなる。

これは、私の、言うなれば、小説家としての習性なのです。
小説家とは特異な人種です。
小説家は、どれほどの逆風が吹いたとしても、自分の目で実際に見た物事や、自分の手で実際に触れたもの以外を、心から信用できないからです。
だから私はここにいるのです。

来ないことよりは、来ることを選びました。
見ないことよりも自身の目で見ることを選びました。
口をふさぐことより、皆さんにここで話すことを選びました。

それは、私がここに政治的なメッセージを運んできたということではありません。
物事の善悪を判断することは小説家の最も重要な仕事であることはもちろんです。
しかし、そうした判断を他人にどのような形で伝達するかという決定は個々の小説家にゆだねられています。

私自身はそれを物語の形にーそれも、シュールな物語に変換するのを好みます。
だから本日、皆さんの前に立っても政治的なメッセージを直接伝えようとは思わないのです。

が、ここで、一つ非常に個人的なメッセージを述べさせて下さい。

それは、私がフィクションを書くときに常に心がけていることです。
(座右の銘として)紙に書いて壁に貼ってあるわけではありません。
しかし、私の魂の壁に刻み込まれています。

こういうことです。

もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があるとしたら、私は常に卵の側に立ちます。

そう、いかに壁が正しく卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。

正しい正しくないは、ほかの誰かが決めることです。
あるいは、時間とか歴史といったものが決めるものでしょう。

しかし、いかなる理由であれ、壁の側に立ち、作品を書くような作家に、どれほどの価値があるのでしょうか。

このメタファー(比喩)の意味は何か?
時には非常にシンプルで明瞭です。
爆撃機や戦車やロケット、白リン弾は、高くて硬い壁です。
それらに潰され、焼かれ、撃たれる非武装の市民が卵です。

これがこのメタファーの一つの意味です。
しかし、それが全てではありません。もっと深い意味を含んでいます。
こう考えてみてください。多かれ少なかれ、我々はそれぞれにみな一つの卵なのです。

かけがえのないひとつの魂と、それを壊れやすい殻でくるまれている、卵なのだと。

これが、私の本質であり、皆さんの本質でもあります。

大なり小なり我々はみな、それぞれにとっての高くて硬い壁に直面しているのです。
その高い壁は、《システム》と呼ばれています。
本来なら我々を守るはずのシステムは、時に生命を得て、我々の命を奪い、我々に人を殺させます。
-冷たく、効率的に、システマティックに。

私が小説を書く理由は一つしかありません。
それは、個々の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためなのです。

物語の目的は警鐘を鳴らすことです。
システムが我々の魂をそのクモの糸の中に絡めとり、おとしめるのを防ぐために。
常にそこに光を当て、警鐘を鳴らしているのです。

私は、物語を通じて人々の魂がかけがえのないものであることを示し続けることが、小説家の義務であることを信じて疑いません
-生と死の物語を書き、愛の物語を書き、人を涙させ、人を怯えさせ、人を笑わせることによって、
個々の魂のかけがえのなさを明らかにしようと試み続けているのです。

そのために小説家は、日々大真面目にフィクションをでっち上げ、作り続けているのです。

私の父は昨年90歳で亡くなりました。
彼は引退した教師で、パートタイムの仏教の僧侶でした。
大学院生のとき、父は陸軍に徴兵され中国の戦場に赴任しました。

私は戦後に生まれた子供でしたが、父が毎朝朝食の前に、家の仏壇に向かって長い真摯な祈りを捧げる姿を見てきました。
一度、父にその理由を尋ねたことがありました。
『戦争で亡くなった人のために祈っているのだ』と父は答えました。

亡くなった全ての人のために祈るのだ、と父は言いました。
敵も味方の区別なく、命を落としたすべての人のために。

仏壇に向かう父の背中を見ていると、父の周囲に死の影が漂っているような気がしたものです。

父は亡くなり、父と共に父の記憶も逝ってしまいました。
それがどんな記憶であったのか私にはわからないままに・・・。

しかし、父の周囲にあった死の気配は、私の記憶の中に残っています。
これは、父から受け継いだ数少ない、しかし最も大事なものごとの一つです。

私がここで皆さんにお伝えしたいことはひとつです。

我々は国や人種や宗教を超えて、同じ人間なのだということです。
システムという名の硬い壁に立ち向かう、一つ一つの卵だということです。

見たところ、壁と戦っても勝ち目はないように見えます。
壁はあまりに高く硬く、冷ややかです。
少しでも私たちに勝ち目のようなものがあるとしたら、

それは自分と他者の魂のかけがえのなさを信じ、そして、魂を合わることで生まれる温かみです。

 

考えてみてください。
我々のうちにははっきりと手に取ることができる、生きた魂があります。

システムは魂を持っていません。

システムに我々を利用させてはいけません。
システムに生命を任せてはいけません。

システムが我々を作ったのではありません。我々がシステムを作ったのです。

私が今日皆さんに申し上げたいのは以上です。
エルサレム賞の受賞に感謝します。
私の本が世界の色々な場所で読んでいただけることに感謝します。
イスラエルの読者のみなさんにお礼をいいたいと思います。
何よりも、あなたがたの力によって、私はここにいるのです。
私たちが何かを、とても意味のある何かを、共有することができたらと思います。

ここで皆さんにお話できる機会をいただき嬉しく思います。

 

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授賞式の様子がちょっと観れます! ムラカミさんの英語、とても上手です。